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渡良瀬遊水池の歴史

昔ここに谷中村があった 〜渡良瀬遊水池100年の歴史

 渡良瀬遊水池は、100年前までは谷中村があったところです。栃木県の南端、渡良瀬川の最下流に位置し、3000人が生活する農業と漁業の村でした。時折襲う洪水は、山地の肥沃な土をもたらし農作物はよく実りました。

谷中村の名は、明治期最大の社会問題であった鉱毒事件で知られています。

 明治10年代から、上流の足尾銅山からの鉱毒の流出により、渡良瀬川沿岸地域では作物が実らず、魚もとれない鉱毒被害が激化・拡大していきました。被害民たちは、政府への請願運動に立ち上がります。
 栃木県選出衆議院議員の田中正造は、10年にわたって国会で足尾銅山の操業停止を訴え続けますが効なく、明治34年議員を辞職して明治天皇に直訴しました。それを機に鉱毒民救済の世論が盛り上がります。正造は、谷中村に入り村民と行動をともにします。
 明治政府は、谷中村を廃村にして遊水池化することで鉱毒事件の鎮静化を謀り、村民たちの多くは父祖伝来の地を追われました。16戸が踏みとどまり抵抗しましたが、明治40年の強制破壊で、谷中村は滅亡しました。
田中正造
田中正造
 昭和51年、渡良瀬貯水池造成工事に谷中村遺跡が呑み込まれそうになったとき、旧住民を中心とした「谷中村遺跡を守る会」が発足して、建設省に抗議し、遺跡の一部(雷電神社跡、延命院跡、役場跡など)が守られました。貯水池のハート型にくびれた所が、遺跡保存地域です。
1907年(明治40年)強制破壊後も谷中残留民は仮小屋を作り、戦いを続けた

渡良瀬遊水池 略年表

1877(明10) 古河市兵衛、足尾銅山精練所創業。
1885(明18) 足尾鉱毒、渡良瀬川沿岸に広がる。
1891(明24) 田中正造、第二回帝国議会で鉱毒問題を質問、鉱業停止を要求。
1896(明29) 大洪水、鉱毒被害は渡良瀬川・利根川・江戸川流域の1府5県。
1897-98 鉱毒被害民3回にわたる東京押し出し(要請行動)。
1900(明33) 第4回東京押し出しで川俣事件勃発。逮捕者100余名。鉱毒問題に世論高まる。
1901(明34) 田中正造、国会で最終演説、議員を辞して明治天皇に直訴。
1904(明37) 正造、谷中村に入村。栃木県議会、秘密会で谷中村買収遊水池化案を可決。
1907(明40) 栃木県、谷中村残留民家屋を強制破壊。
1913(大 2) 田中正造死去。
1918(大 7) 渡良瀬川を遊水池に流し込む付け替え工事。
1945(昭20) 赤麻沼が流れ込む土砂で埋まる。
1970-72(昭45-47) 第一次・第二次洪水調節池越流堤工事完了。
1988(昭63) アクリメーション計画(レジャーランド化)工事始まる。
1989(平 1) 渡良瀬貯水池(谷中湖)完成。
1990(平 2) 渡良瀬貯水池からの放流により、江戸川流域で水道水のカビ臭事件が発生。
1998(平10) 第三洪水調節池の越流堤が完成。
2002(平14) 国土交通省、第二貯水池建設計画の中止。
2002(平14) ヨシ原浄化運転を開始。
2004(平16) 渡良瀬遊水池(谷中湖)の干し上げ始まる。
2006(平18) 谷中村廃村100年。
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